福島第一原発処理水の海洋放出設備の試運転が始まった6月12日、韓国の国会議事堂前では全国から集まった漁業関係者や市民らが、「福島原発汚染水放出反対」のシュプレヒコールを叫んだ。この翌日には、済州島で漁業および農業関係者らが反対のデモを行い、「日本が汚染水放出を撤回するまでデモを続ける」と声をあげるなど、韓国で福島原発処理水の海洋放出を巡るイシューが熱を帯びてきた。
■刺身が売れなくなった
韓国では最近、一部での「塩」の買い占めがニュースになった。韓国メディアは価格が高騰していると言う業者の声を拾っていたが、塩に限らず、処理水を海洋放出する前に水産物の消費にも影響が出始めている。
12日、国会議事堂前に座り込んでいた男性に話を聞くと、「魚の価格が下がり始めている」と渋い表情で言う。韓国南部、麗水から来た漁師(40代)だった。
「福島原発の汚染水が放出されるっていう話がでてきてから、刺身なんかは売れなくなったって知り合いの卸業者が言っていた。中にはもう精肉に業種変えした人もいるらしい。消費者がもう不安になっているっていうことでしょ。
科学的なことはよくわからないけど、専門家が危険だと言うのだから放出はあり得ない。日本は汚染水を放出するのではなく他の方法で解決してほしい。それに福島産水産物の輸入は絶対にだめだ」
影響が出ているのは水産物を食材にしている飲食店も同じだ。ソウル市内で人気の寿司屋を営む社長はこう話す。
「5月からお客さんが目に見えて減りました。よその店では10席満席のところが2席しか埋まらないって頭を抱えています。汚染水の放出を巡っては野党やユーチューバーが科学的データを無視したまま、無駄に反対を煽っていることが影響している。うちに来るお客さんも『大丈夫だよねえ?』なんていう話をしてくる人もいて、丁寧に説明はしますけど、寿司が好きで来ているお客さんさえこうだから一般の人々は漠然と不安になりますよ。
水産関係は漁師だけではなくて、それを流通して、小売りして、その食材を料理として提供するわたしたち寿司屋もいる。知り合いの日本料理店では売り上げがダウンしたといっていて、『もう少し様子を見て、頑張ろう』と声をかけたのですが、そんな余裕すらないと深刻なところも出始めている」
■「ヒラメの刺身好きの人への被害が憂慮される」
韓国沿岸漁業人中央連合会(1万5000人強の漁師が加入)は8日、処理水放出を巡り、メディアで根拠のない危険を煽ったとして徐鈞烈・ソウル大学原子核工学科名誉教授を告発している。
徐教授はメディアで、「トリチウムは重いので沈むが食物連鎖で浸透する可能性がある。そのため、海底深くに棲むヒラメなどは被爆するのでヒラメの刺身好きの人への被害が憂慮される」や「水深200メートルから500メートルの水は中国から台湾海峡を通じて済州島近海を通り、東海(日本の日本海)に流入するのに5~7カ月かかる」と繰り返し主張していた。
韓国沿岸漁業人中央連合会は、「人々が神経をとがらせている時に検証もされていない発言を繰り返しているが、我々にとっては死活問題。これからテレビなどで話をするときは検証された資料をもとに話をしてほしい」と告発に踏み切ったとしている。実際に生鮮の価格は「1キログラム1万5000ウォン(約1500円)が半分以下の6000ウォン台(約600円)に下落している」という。
韓国の海洋水産部はこうした動きを受けて徐教授の分析へ反駁する資料を発表している。放出された処理水が韓国の沿岸に到達するのは海流により4~5年かかり、トリチウムの濃度も韓国海域の平均より10万分の1の水準であること、そして、このシミュレーションは水深5000メートルの深海まで行っており、徐教授が言う200メートル~500メートルも含めたことを強調している。
この問題を巡り、韓国では、与・野党が激しく対立している。与党は、「科学的データに基づいて判断する」とするが、野党は、尹錫悦大統領が訪日した際、処理水海洋放出について「韓国民へ理解を求めていく」と発言したことなどに反発。
この発言は共同通信が報じたもので、韓国政府は否定したが、「韓国だけでなく世界の人々に影響する問題」として最大野党「共に民主党」は、署名運動を展開し、5月20日には野党や環境団体などが主催したソウル中心部の光化門で行われた反対デモ「汚染水海洋投棄反対国民行動」へ李在明・党代表自ら参加し、「処理水放出はテロ」と表現し、気炎を揚げた。
■日本のドラマ「THE DAYS」を巡ってもひと騒動
最近ではNetflixで世界ランキングトップ10入りした、2011年の福島第一原発事故を素材とした日本ドラマ「THE DAYS」でもひと騒動あった。野党側は韓国でまだ未放映な理由を、「政府の圧力」「金建希(尹錫悦大統領夫人)が放映させないように手を回した」とし、実際にそんなニュースが流れた。結局、これは、この6月に韓国からNetflixに移行した等級制度(年齢による観覧の可否を審議する)の業務上の遅延によるものだったことが判明し、フェイクニュースだったことが分かっている。
中道系紙記者が言う。
「野党にとっては、処理水の海洋放出が問題ではなく、目的は現政権の糾弾です。背景には来春に行われる総選挙がある。李在明党代表は3月末に土地開発を巡る特恵や背任などの嫌疑で在宅起訴され、裁判が進行中ですし、前々回の党代表選挙では金銭が飛び交ったという疑惑も浮上するなど悪材料が続いている。裁判の結果では野党が大きく揺らぎかねませんから、非難の矛先を現政権にむけたいのです」
ところが、野党のこうした動きが思わぬ外交問題にまで発展した。
李在明代表がケイ海明駐韓中国大使に招待された席で、ケイ海明駐韓中国大使は「一部ではアメリカが勝利し中国が敗北することへ賭けているというがこれは明らかに誤った判断であり、あとで必ずや後悔するだろう」と韓国政府の外交政策を批判したのだ。
しかもこれは野党のYoutubeチャンネルが生中継し、李代表としては尹錫悦政権の対中、対日政策を批判し、処理水放出反対で共闘しようと呼びかけることが目的だったとされたが、逆に中国に利用された格好となった。
韓国政府はケイ海明駐韓中国大使の発言を内政干渉だとして「度を超している」と反駁。保守・進歩系問わずメディアも批判したが、尹錫悦大統領自らも「国民が不快に思っている」と言及し、中国政府に適切な処置を求めたことで波紋はさらに広がっている。
与・野党では混迷が続いているが、韓国の人々の不安が如実に現れたのは6月15日、韓国日報と読売新聞が共同で行った世論調査結果だ。韓国では処理水放出に反対という人が84%にのぼり、賛成はわずか12%だった。それに対し日本では賛成が60%、反対が30%という結果が出ている。
■政府は処理水放出のブリーフィングを開始
韓国では2008年、李明博政権時にアメリカ産牛肉を輸入するとした際、ひと月以上に渡る大きな反対デモが繰り広げられた。韓国のテレビが狂牛病に冒されたアメリカ牛の動画を放映するなどして不安が広がったためだったが、今回はその時のように市民も参加した大きな反対デモの動きはない。野党の処理水海洋放出を巡る動きは暴走だと見る人も多いが、消費に影響していることや世論調査の結果を見ても不安が広がっていることがわかる。
韓国政府は、こうした動きを受けて、15日からは今後、毎日、処理水放出についてのブリーフィングを行うことを発表した。15日の説明では科学的データに基づき、処理水の安全性を説明していたが、「安全性が検証されない処理水の放出には反対」という立場は固持している。一方、野党は、政権のブリーフィングに対し、市民と専門家らへ政府へ質問できる場所を別途設けることを検討していることが伝えられている。
また、韓国の国際法学者を含め一部国家では、放出の暫定処置を求める訴訟を国際海洋法裁判所に提出する動きが出ている。もし、暫定処置が認められれば、2~3年は保留される見込みといわれている。ただ、この仮処分が認められる可能性はかなり低いというのが大方の見方だ。
日本では、事故が起きた福島という「地域」の問題ととらえているような雰囲気を感じるが、これは、韓国も含め、関係諸国にとっては国際問題でもある。韓国野党の動きは科学的根拠を無視しており、その主張には同意できないが、それでも、人々が漠然と不安に思う気持ちは十分にわかる。日本政府はそうした安全性の説明について、IAEAの分析結果だけではなく、国内外に向けて日本独自の何らかの発信が必要なのではないだろうか。【東洋経済オンライン】