福島県浪江町にある「特定復興再生拠点区域」(復興拠点)の避難指示が31日、解除された。東京電力福島第1原発事故に伴い設定された帰還困難区域に、再び人が住めるようになるのは4例目だ。自宅を再建し前を向く人がいる一方、荒廃した街で葛藤やあきらめを口にする人もいる。住民らはさまざまな思いを胸に、故郷で節目の日を迎えた。
「午前10時をもちまして、浪江町特定復興再生拠点区域の避難指示が解除されました」
春の日差しの下、防災無線が町内に響き、室原地区の復興拠点で避難指示解除式が開かれた。吉田栄光町長が「いつ帰れるんだと言っていた高齢者も多くが亡くなり、申し訳ない気持ちだ」と前置きし、「農業が盛んだった地域で民間投資を促し復興を進めたい」と強調。「拠点外も早く故郷に帰れる方向性を示したい」と、参列した国や県の関係者に協力を求めた。
同町の復興拠点で、帰還に向けた準備宿泊に申し込んだのは12世帯22人だけで、住民登録者の2%だ。多くの住民が生活基盤を町外に移した。帰還の動きはこれまでの解除地域以上に鈍く、地域の再生は容易ではない。
「ここが出発」帰還農家
室原地区の自宅に妻と帰還を予定する高田秀光さん(71)も式典に出席した。午前10時に防災無線で避難指示解除が伝えられると、「避難していた12年間を思い出し、じんとした」。この日は南相馬市原町区の災害公営住宅から1月に再建した自宅を訪れ、ビニールハウスで育てるトルコギキョウに手作業で水をまいた。神奈川県に住む次男が節目の日を祝いにサプライズで訪れ、真新しい自宅で遊ぶ孫2人の姿に目を細めていた。
3月20日ごろに初めて自宅に1人で泊まった夜、自宅前の国道はほとんど車が通らず心細い気持ちもよぎったが、震災前と同じ360度の満天の星を眺め、帰還の決意は揺らがなかった。「ここからが出発。心の中では戻りたいと思っている住民もいる。ここで生活している姿が(地区のみんなの)後押しになれば」と話した。
妻英子さん(67)は孫たちにカレーライスを振る舞った。既にほかの孫も泊まりに来たといい、「この家を気に入ってくれたみたい。ここが親の実家なんだと思ってくれるとうれしい」と笑顔を見せた。夫妻の引っ越しは5月の大型連休ごろの予定だという。
「地域再生難しい」津島
町中心部から離れた山あいにある津島地区の復興拠点では解除に伴う行事はなかった。だが、避難先から自宅や自宅跡地を訪れる住民の姿が複数みられ、「津島の誰かに会えるかと思って」と口にした。空き地になった自宅隣の畑の手入れをしていた男性(68)は「未除染の山に囲まれ、ガソリンスタンドも診療所も商店も何もない。この状態で帰れるわけがない」と嘆いた。
「あの店は今度解体……。ここの人は亡くなって……。みんなバラバラだ」。下津島地区の区長、今野秀則さん(75)は避難先の大玉村から室原地区で開かれた解除式に参加し、その足で下津島の自宅に寄った。「人はいないし、更地ばかり。生きているうちに地域社会が再生するのは無理かな」。節目の日にも喜びはなかった。
換気をするため、家の窓を全部開けると春の風が吹き抜けた。環境省による家屋の無償解体は、避難指示解除から1年以内に申請する決まりだ。
「先祖から引き継いだ家は残したいが、相当なお金が掛かる。戻っても事故前のように人や自然とのつながりはない」。そうこぼす一方、「でもやっぱり帰りたい」とつぶやいた。【毎日新聞】