福島第一原発「処理水」放出、宮城の漁師の不安#3
葉上 太郎2023/03/15
東日本大震災による津波で船だけでなく家まで失い、ゼロどころかマイナスから再出発した宮城県の漁師達。苦労は並大抵ではなかった。しかも、この12年間で漁師の数は3割も減ったのに、震災前に迫るほどの漁獲量を復活させたというのだから驚きだ。
「多くの方に支援をいただきました。補助金など行政の助けもありました。そしてなにより、それぞれの漁師が大変な思いをして漁業を復活させてきました。つまり宮城の漁業は特別な存在なんです。だからこそ将来につなげていきたい」。宮城県漁協の組合長、寺沢春彦さん(60)は力を込める。
だが、隣の福島県で大事故を起こした東京電力福島第一原発が今年の「春から夏頃」に「処理水」の放出を始める予定だ。風評被害は必ず起きると指摘されている。宮城の漁師はまた痛めつけられるのか。
迫り来る「危機」を前に、漁師の気持ちを寺沢さんに代弁してもらった。
「まず、漁業に対しては多くの誤解がないでしょうか。例えば漁師は海ならどこでも魚を獲っていいと思われていないかと」。寺沢さんが投げ掛ける。
漁師には「庭」がある。「特に沿岸漁業は、共同漁業権(漁協組合員の漁業権)、区画漁業権(養殖の漁業権)といったエリアの中で行われています。『目の前の決められた海』でしか漁業を営めないのです」。
海続きの福島県で「処理水」を流されたら、避けようがない理由である。
風評被害が深刻になれば地元漁師たちは…
漁業は投資額が大きいのも、あまり知られていないかもしれない。漁船には巨額な建造費が掛かり、漁師は借金を抱えるのが常だ。漁具をそろえるにも経費が必要で、燃料費や人件費も安くはない。船舶保険の支払いも結構な額になる。魚が獲れ、市場で売れて初めて生活費が賄え、借金が支払える。そもそも津波で全てを失った漁師は今もまだ借金を抱えている人が多い。
宮城県では養殖が盛んだが、稚魚や稚貝を網で囲った海に放り込んでおけば勝手に育つというものでもない。「出荷できるまでには経費がかかり、水揚げしてようやく支払いができるのです」と寺沢さんが説明する。#1で取り上げたホヤは、養殖イカダに吊るすまでに1年、それから水揚げには最低でも3年必要だ。寺沢さんは「下手をしたら、水揚げまではずっと借金です。最終的に風評被害で売れなければ借金だけが残ります」と話す。
宮城県では石巻港や気仙沼港などの魚市場が、他の港を母港とする漁船の水揚げ誘致に力を入れている。例えば、黒潮と共に回遊するカツオの群れを追いかける「近海カツオ漁」の一本釣り漁船は、初夏から秋にかけて気仙沼で水揚げする。
「太平洋の漁場から水揚げしやすいという地理条件もありますが、仲買人が集まって高く買ってもらえるというのが大きな理由です。それなのに処理水の影響で風評被害が出れば、仲買人も漁船も他の港に移ってしまうでしょう」
サンマも似た構造にある。東京都目黒区で毎年行われている「目黒のさんま祭」には気仙沼で水揚げされたサンマが使われている。だが、サンマ漁が行われるのは気仙沼沖の太平洋だけでない。群れは季節によって北海道・北方4島沖から房総沖へ移る。原発事故が発生した当初は福島県での水揚げが敬遠された。風評被害を避けようとしたのが理由の一つだったが、またこうしたことが起きないとも限らない。
「宮城県産品は食べない」という家庭も
これまでも風評被害がなかったわけではない。
「宮城県産品を食べない家庭があるというデータもあります。風評被害は続いているのです。そうした現状があるのに、『処理水が流されたら、宮城の水産品は敬遠する』と言われた漁師が既にいます」と寺沢さんは話す。
このような影響が想定されるにもかかわらず、寺沢さんは政府の広報が不十分だと感じている。
処理水とは東電福島第一原発で使われた冷却水のことだ。同原発には溶けて固まった核燃料(燃料デブリ)があり、冷やし続けなければ暴走する。冷却に使われた水は放射性物質に高濃度汚染されるので、ALPS(多核種除去設備)で処理される。
ただし、放射性物質の中でもトリチウムは除去できない。「ところが、トリチウムしか残らないようなイメージで受け止められています。実際には他の放射性物質も『規制基準値内』になるだけです。正しく理解されるよう、政府は努力しているでしょうか」と指摘する。
政府・東電はトリチウムについて「自然界にも存在する水素の仲間。発生する放射線のエネルギーは非常に弱く、環境や人体への影響はほとんどない。さらに海水で大幅に薄めるので、国が定めた安全基準の40分の1、世界保健機関(WHO)が定めた飲料水基準の約7分の1未満になる」としている。
「霞ケ関の食堂で飲料水にすれば風評被害対策になる」
「ならば海水ではなく淡水で薄めて、ペットボトルに入れて飲料水にしてみてはどうでしょう。桜のマークを入れるなどして売ったらいい。災害備蓄品としても使えます。霞ヶ関の省庁の食堂で飲料水にするなら、風評被害対策になるのではないでしょうか」と提案する。
そして、「我々は当事者だから、飲めと言われれば“トリチウム水”だって飲みます。でも、一般の国民は飲めるでしょうか」と首をひねる。
注意しておかなければならないのは、宮城の漁師には何ら罪はないという点だろう。加害者の立場にある政府や東電が、被害者の漁師にここまで言わせているのである。
寺沢さんは政府が流しているPR動画についても苦言を呈する。
「『考えよう』と国民に投げ掛ける内容になっています。そうじゃないですよね。『飲んでもいい水なので、宮城県産品も安全だ』と言ってもらわないと」
「関係者の理解なしにはいかなる処分(放出)も行わない」。これは政府や東電が繰り返し述べてきた約束だ。岸田文雄首相も今年3月11日、福島市で改めてこの約束を「順守します」と発言した。これには宮城県内の漁師から極めて強い批判がある。
宮城県漁協は「放出反対」で一貫しており、撤回する考えはない。
「約束を順守する」なら、放出は行えないはずだ。ところが、東電は放出のための工事を着々と進めていて、政府も「春から夏頃」という放出開始見込みの時期を決めている。
「『順守』とは『約束を守る』という意味でしょう。言っていることとやっていることが反対です。このままなし崩し的に放出を始める気なのでしょうか」と寺沢さんはあきれ顔だ。
「結局、我々が反対しても流すのです。ならば、『反対はあるけど流す。何かあったら全面的に責任を持つ』と言うべきです。『腹をくくれや』と言いたい」
風評被害を起こす“国”は何をしているのだろうか
「放出反対」の宮城県漁協は、風評被害が出た場合の賠償交渉のテーブルについていない。反対しているのに、賠償交渉するのは、理屈として通らないからだ。
という状況にあるのに、東電は賠償基準を発表した。「勝手に発表しておいて、私は『何一つ認めない』と言っています。全国の価格動向と比べて上昇したら賠償しないと言っているようですが、例えば今年のノリは九州方面が不作で、こちらは値段が上がっています。こうした事情を除外して風評被害との関係をどう判断するのか。そもそも毎日価格変動する中で、そうして一年が終わった時にトータルで今年はよかったな、悪かったなという計算をしているのが私達の経営なのです」と話す。
寺沢さんは政府の「対策」にも不快感を隠さない。「国は風評被害を起こす当事者なのに、フェイドアウト(徐々に消えること)しようとしているのではないか」と言う。
政府は風評被害で値下がりした水産物を一時的に買い取り、冷凍保管するための基金を設ける対策案をまとめた。
「最初は国が一時買い取りをするのだと、我々は理解していたんです。ところが、価格が一定程度下がったら漁協が買い支え、冷凍などの経費の一部を政府が支援するという内容だったというのです。政府の担当者は『最初からそういう段取りでやっていました』と言っていますが、私は聞いていません。そもそも買い取って冷凍すると言っても、どこに冷凍倉庫の空きがあるのか。津波で被災して以降、この辺りには余分な冷凍庫などありません。では、政府に新たな倉庫を造る気があるのか。しかも、こうした事業は担当の職員がいなければできないほどのレベルです。国は人件費も負担してくれるのか。冷凍した水産物は経済動向を見ながら販売することになりますが、もしその時に漁協が損を出したら、組合員の漁師にツケが回るのです。私には国が関与を減らそうとしているようにしか見えません」
風評対策の催しについても、寺沢さんは疑問視している。
「何十年後の漁業を背負って立つ人を困らせたくない」
「イベントなどを行ったら政府が支援する。これが国の施策の流れです。でも、風評被害は国のせいで起きる。なぜ、被害者がイベントを催すなどして苦労し、加害者が費用の一部を支援してやるという態度なのか。本来政府がやる仕事なのに」
寺沢さんは今後、賠償交渉が始まったとしても、簡単には折れないつもりだ。
「だって廃炉作業が終わるまで、これから何十年と海洋放出を続けるのでしょう。いずれ私はいなくなります。今あやふやなことをして、今後の漁業を背負って立つ人を困らせたくありません」
原発というと、とかく社会は福島に関心を寄せる。
「全体が“福島目線”になっています。確かに福島の問題は極めて大きい。でも、福島が了承すれば、全て了承されたかのようにとらえるのは間違っています。宮城には宮城の事情と思いがあります。そもそも宮城の漁業者は変なことをしてきたわけではありません。震災後はむしろ頑張ってきたのです。自然が相手だけにリスクを抱えながら漁を再生させてきたのです。なのに、なぜ生活を脅かされなければならないのか」
被災から12年間の苦労がにじむような言葉だ。
「私達はこれまでと同じように、ただ普通に漁を続けていきたいだけなのです」。寺沢さんはそう結んだ。【文春オンライン】