東京電力福島第1原発事故で避難した福島県や近隣県の被災者が、国に損害賠償を求めた訴訟の上告審弁論が25日、最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)で開かれ、結審した。国と東電の責任を問う同種訴訟は、最高裁でほかに3件審理されており、夏にも統一判断が示される見通し。判決期日は後日指定される。
この日、弁論が開かれたのは、同種訴訟で最大規模(原告約3550人)の「福島訴訟」。一連の訴訟での最高裁弁論は、千葉、群馬で起こされた訴訟に続き3件目。5月16日には、愛媛で起こされた訴訟でも弁論が開かれる。
4訴訟とも、東電の賠償責任についてはすでに確定している。
弁論では原告側の弁護団が、平成14年に政府の地震調査研究推進本部が公表した、巨大津波の可能性を示唆した地震予測「長期評価」には信頼性があったのに、規制権限のある国は何も対応をとらなかったなどと主張した。
一方、国側は「長期評価は原子力規制に取り入れるべき正当な見解ではなく、仮に(国が)規制権限を行使したとしても、事故は防げなかった」と、従来の主張を繰り返した。
◇
「私が生きてきた証そのものを、原発事故が奪った」。この日の弁論で原告を代表して意見陳述した深谷敬子さん(77)は、法廷で訴えた。
福島県郡山市に生まれ、結婚後、夫のふるさとの同県富岡町に自宅を建てた。その数年後、直線距離で約7キロ離れた場所にある福島第1原発が、運転を開始した。
国や電力会社は「原発は絶対安全」としており、1986(昭和61)年にチェルノブイリ原発事故があった際も「原子炉の仕組みが違い、日本では放射性物質が漏れるような事故は絶対起きない」などと説明していた。「すっかり安心して暮らしていた」という。
40年にわたって美容師として働き、子供が独立し60歳になったとき、自宅の敷地内に美容室をつくった。地域のお客さんとおしゃべりを楽しみ、自家菜園で育てた野菜を料理し、友人やお客さんと一緒に食べる。そんな穏やかな暮らしを、原発事故はすべて奪い去った。
すぐに戻れると思い、仕事着のままほとんど何も持たずに逃げた。体育館や親族の家、旅館、復興公営住宅…。10カ所以上を転々とした。現在は、郡山市内にある息子の家で同居する。自宅は朽ち果て、屋根も抜け落ちた。動物や泥棒に荒らされ、とても住める状態ではない。一時帰宅で変わり果てたわが家を見るたびに、悔しさがこみ上げ、涙がこぼれる。
「私の人生そのものを返してほしい。それが無理なら、事故がどうして起きたのか、誰の責任なのかはっきりさせてもらいたい」。弁論で、裁判官に対しこう要望した深谷さん。弁論終了後、記者会見し「避難者がどれほど大変な思いをしたか知ってほしい。いい判決を期待している」と話した。【産経新聞】