2022年2月下旬に始まったロシアによるウクライナ侵攻。侵攻当初、ウクライナ国内の原子力発電所が攻撃目標となり砲撃が加えられるという前代未聞の事態も発生した。1986年に大事故を起こしたチョルノービリ(チェルノブイリ)原発もロシア軍により一時占拠されるなど、新たな原発事故・放射線被害の発生が強く危惧された。
そのような事態を日本で強く心配しているのが、松本大学(長野県松本市)の菅谷昭学長だ。菅谷学長は甲状腺疾患を専門とする医師だった1990年代後半、チョルノービリ原発事故で放出された放射性物質による健康被害を受けたベラルーシ国民に対し、現地に5年半滞在しながら医療支援を行った経験を持つ。その貢献ぶりは、今でも現地で「奇跡のメス」として高く評価されている。
また、松本市長在任中(2004~2020年)に発生した東日本大震災による福島第1原発事故では、放射線被害が心配される被災地の子どもたちを松本市に短期・長期で受け入れたこともある。停戦の兆しさえ見えない現在、菅谷学長に現地の状況や被災者の受け入れなどについて聞いた。
35年経っても放射線量は高い現実
――ロシアによるウクライナ侵攻では、原子力発電所や関連施設への攻撃がなされました。
今回、戦闘で原発が攻撃対象になったことは本当に信じられない。これまで考えられなかったことが起きている。旧ソ連崩壊直後からウクライナの隣国であるベラルーシで医療支援を行ってきた。当時を振り返ってみても、ウクライナもベラルーシも同じスラブ系の民族だ、同一の民族だという意識が強かったように思う。現在、ロシアとウクライナが戦っているのを見ると信じられない思いだ。
また、チョルノービリ原発も訪れたことがある。ベラルーシからロシア軍が国境を越えてチョルノービリ原発を占拠したという話を聞いて、「あ、あの道を通ったのだな」とすぐに思いついた。訪問したのは1991年3月、ソ連邦が崩壊する直前だった。事故は1986年で、まだまだ放射線量がとても高かった。原発から30キロメートルゾーンは、住民が強制的に退避させられた地域だ。除染もこれまで行われたことがあったが、結局「中途半端で効果がない」と現地の関係者が証言している。
そのため、ロシア軍が原発とその周辺地域を制圧していた直後、一時的に空間放射線量が高く出たという話を聞いたが、さもありなん、と思った。事故後、35年余経過しても、まだまだゾーン内の放射線量が高いためだ。
チョルノービリ原発は現在、事故を起こした原子炉を石棺で覆い、それでも内部ではまだ残された放射性物質による核反応が生じており、放射線核種の漏出があるため、数年前に大きく強固なドームで覆ってしまった。そのため、砲弾を受けても早々は壊れないと思うが、それでもミサイルなどによる誤爆をとても心配したし、今後もそのようなことがないか心配している。
――ベラルーシ滞在中は首都ミンスクに加え、ウクライナと国境を接するゴメリ州でも医療支援をされました。
そうだ。チョルノービリ(チェルノブイリ)原発事故で、多くの放射性物質が広がった地域がゴメリで、住民に放射性物質による深刻な健康被害が出ていた。そのため現地に居住したことがある。
1991年3月、チョルノービリ原発を訪れた菅谷昭学長(写真・本人提供)
ウクライナには多数の原子力発電所があり、まさかロシアのプーチン大統領がそういった施設を攻撃することはないと思っていた。1986年のチョルノービリ原発事故は、その後福島第1原発の事故が起きたが、それでも原発では史上最悪の事故であり、ウクライナやベラルーシでは深刻な被害が今でも続いている。それをプーチン氏はわかっていると思っているし、第2のチョルノービリを生じさせてはいけないと思っているだろうが……。
一時期ロシア軍が攻撃したウクライナ東部・ザポリージャ原発がもし破壊され、放射性物質が放出されたとすれば、ロシアの首都モスクワも危険にさらされる。さらに世界に改めて放射性物質が拡散してしまう。
ベラルーシ現地の情報も得にくい
――隣国のベラルーシは、今回のウクライナ侵攻をどうみているのでしょうか。
首都ミンスクを中心に、私が代表を務めている「チェルノブイリ・福島医療基金」の関係者が住んでいるが、残念ながら現状についてよく話を聞けない。盗聴など統制が厳しいためだ。2021年夏にベラルーシのルカシェンコ大統領に対する反対運動が激しくなって以降、こういった統制が厳しく、スタッフに「元気か、無事か」といった程度は聞けるがそれ以上は難しい。とても心配だ。
ゴメリ州の住民も「チェルノブイリのようなことは2度と起きてほしくないし、起きることはないだろう」と思ってきた。当時の被災者はすでに子ども、孫と2代、3代となるほどの時間が過ぎたのに、また新たな危機にさらされている。
――菅谷学長が医療支援をされたのは1996年からです。現地の医療体制はどのような状況にありますか。
とてもよくなっている。西側の情報や支援も入っており、私がいたときよりはるかによくなった。強権のルカシェンコ大統領も「子どもは大事にする」と公言しており、医療体制の改善には注力しているようだ。われわれもゴメリ市に「子ども病院」を建設する際、相談などの協力を行った。とくに新生児を含めた小児疾患の診断・治療などを中心に、現地の医師と協力を継続してきている。
――現在、ウクライナの住民を日本で受け入れる活動が高まっています。菅谷学長は、松本市長時代に福島第1原発事故が発生し、福島県飯舘村など放射線量が高い被災地域から子どもたちを受け入れるなどの支援を行いました。
子どもたちを受入れた。ただ、原発事故と戦争、また国内と外国と事情が違うところが多いので、日本でどこまで支援できるか悩ましいところだ。一方で、松本大学ではウクライナの学生受け入れなど、どのような支援ができるか前向きに検討している。
松本市長時代には、主に2つの受け入れ事業に力を入れた。1つは福島県飯舘村の子どもたちを松本市内に1週間ほど招いた「信州松本こどもキャンプ」。2011年から2017年まで338人が松本市を訪れてくれた。これは、子どもたちが受ける放射線量とそれによる心理的なストレスから一時的にでも解放させたかったためだ。もともとベラルーシでは、高線量の被災地域の子どもたちを国内の保養所といった場所などを利用して一時的に滞在させていたことを知っていたため、これは松本市でもできるのではないかと考えた。
もう1つは、被災地の中学生を松本市に移住させるプロジェクト「まつもと子ども留学基金」を支援した。被災地の子どもたちが安心して生活し、遊び、勉強できる場所を提供しようという目的だった。子どもたちは市内に設けられた寮で生活し、地元の学校に通学した。中にはそのまま松本市内の高校、大学にまで進学した子どももいたほどだ。
(編集部注:松本市役所によれば、東日本大震災で被災地から松本市内に避難してきた人は2011年に117人。現在は176人、57世帯がそのまま松本市に滞在している。また、「まつもと子ども留学基金」を運営する「特定非営利活動法人まつもと子ども留学基金」によれば、これまで女性8人、男性2人が入寮し、松本市で過ごした。ここでは甲状腺などの医療検診も行った。)
善意のみに頼った支援では続かない
――こういった支援を行う際に、とくに重要なことは何でしょうか。
上述したプロジェクトは大きな成功を収めたと思っている。前者は松本市のプロジェクト、後者は松本市民の民間支援団体を中心としたプロジェクトだったが、何よりも、地元住民がとても手厚く、熱心に子どもたちを支援してくれたことが大きい。市役所の職員もがんばってくれたし、とくに後者の移住してきた子どもたちには、市の教育委員会が理解を示してくれ、通学する学校の先生や周辺住民などの支援も心強く、子どもたちをとてもかわいがってくれた。
ウクライナから避難してきた人たちを受け入れることは、法律や言葉の問題もかかわってくる。国内では問題にならないが、国外からの避難者の場合、こうした問題をどうクリアしていくか。
ウクライナの現状から考えれば、誰もが何とかしてあげたいと思う。ただ、そのためには、行政機関(言語・財政・居住・就労などの支援)、医療機関(疾病やメンタル関連の支援)、教育・保育機関(子どもの学業・保育などの支援)、地域住民組織(日常生活の支援)など、広範な協力体制をしっかり構築することが不可欠だ。善意だけのボランティア活動では限度があり、長期にわたる受け入れには困難を来す可能性もあるだろう。
実は、2001年に支援活動の一環としてベラルーシの少年少女舞踊団を日本各地に招いた時、共に活動してくれた当時の高校生が、ポーランドで現在、避難民の受け入れ活動を熱心に行っている。当時の活動から感化された若者が避難民に手を差し伸べている姿を見て、これまでの支援活動が役に立っていることをうれしく思っている。
すげのや・あきら 1943年生まれ。信州大学医学部卒。信州大学医学部助教授の時、チョルノービリ原発事故で放出された放射性物質による被害を受けた被災者、とくに小児甲状腺がんの治療を中心に医療支援に従事。1996年からはベラルーシ共和国に住みながら支援を続けた。2001年に帰国。長野県衛生部長を経て2004年に松本市長に初当選、以後4期16年務める。2020年から現職。『新版 チェルノブイリ診療記』『チェルノブイリいのちの記録』『子どもたちを放射能から守るために』など著書多数。
【東洋経済オンライン】