関西電力の美浜原子力発電所(福井県美浜町)3号機が6月、運転40年超の原発として日本で初めて再稼働した。社会的に長期運転や再稼働に賛否の声が入り交じるなか、技術者らは10年に及ぶ運転停止で失ったノウハウの再構築に臨んだ。10月下旬、3号機は休止して定期検査期間に入った。所員たちは垂れ幕に掲げた「チーム美浜」を旗印に粛々と運転技術を磨き直している。
再稼働時は歓声なく
「3号原子炉、起動しました。3号原子炉、起動しました」。6月23日午前10時、美浜原発の構内に放送が鳴り響いた。
東京電力福島第1原発の事故が起きた2011年以来、10年ぶりに燃料制御棒を引き抜いて再稼働したが、中央制御室には歓声どころか会話1つなかった。同所で原子力安全統括を担う竹越和久氏は「ねぎらうよりも運転に集中させた」と話す。
東日本大震災後、原発規制は一層厳重になった。想定外のリスクに多重の回避策を敷き、稼働期間は運転開始から原則40年、国の認可を得れば60年までとなった。美浜3号機の再稼働には全てのハードルを越える必要があった。
難工事や批判の声も
美浜原発は海に突き出た半島に立地し、山の斜面に接する。17年、チーム美浜は本格的に3号機の工事を始めた。隣では1、2号機の廃炉作業も進む。通常は社員や協力会社含め1500人程度が働く一帯に、最盛期は3000人以上が集まった。
再稼働に向けた工事スケジュールは「視察ルートが1週間で変わるほど」(技術課の市村孝一課長)複雑になり、裏山に作業用トンネルを設けて新たな動線を確保するなど様々な手を打ち続けた。
阪神大震災の約3倍の規模の地震、巨大竜巻にも耐えられるよう前例のない難工事が積み重なった。防潮堤工事で設計より岩盤の位置が深いなど、工程も2度の見直しを迫られた。コンクリートの粒度を落として流し込みやすくするなど「様々な場面で最先端の知見を駆使し、遅れを縮めた」(市村氏)
関電は福井県から再稼働の同意を得られないまま、市民団体などから「古い原発を動かすなんて」と批判を受けていた。高畠勇人所長は「社会的な注目を感じたが、現場は安全性のレベルアップを図る工事しかできない」と計画実行に向き合った。
気づいたら必ず言う
「大事な時です。来てくれませんか」。高畠所長は関連会社に出向している美浜原発のOBたちに頼み込んだ。10年の停止期間で、美浜3号機の以前の再稼働を経験した所員の多くは異動や退職でおらず、所内に生きたノウハウが足りないと考えた。
「ここは運転中は熱くてさわられへんからな」。OBの技術者や作業員は巨大設備を巡り、稼働中と仮定しながら細かく伝えていった。OBと現役世代による大規模な点検では「担当外の所員も参加させて多様な視点を養うようにした」(竹越氏)。
大規模工事と点検を重ねた21年4月下旬、福井県知事が再稼働を認め、美浜3号機は運転準備に入った。「気づいたことは周りに言おう。何度スケジュールが遅れても構わない」。幹部でも設備の結露などに気づいたら必ず報告し、万が一でも放射性物質が含まれていないかなどを調べ上げた。
4カ月運転でも経験値を
6月23日に再稼働を果たしたものの、テロ対策施設が設置期限の10月までに完成せず停止が決まっていた。4カ月の運転期間にはなるが、所員たちの経験値を高め、再稼働を待つ高浜原発1、2号機のメンバーに「どんな小さなことでも伝える」(高畠所長)ことを目的に据えた。
OBや協力会社と連携して点検やノウハウの蓄積にあたった
再稼働後、非常用ポンプの試験中に循環水のセンサーが異常値を示す事態が起きた。発生場所からみて影響は限定的だが、竹越氏は「立ち止まろう」と試験を中断した。水の浄化が不十分で、薄い酸化膜が詰まったことが原因と分かった。ある程度稼働が進まないと動かせない部分で、他の原発の再稼働時にも生きるノウハウになった。
6月29日、発電した電気を市中に送電する「並列」作業を無事に終えた。原子炉起動時には黙って見守った高畠所長は「送電してこそ発電所の存在意義がある。ようやく電気を届けられた」と、涙ながらに所員や協力会社のメンバーに感謝を伝えた。
チーム美浜には電力需給の改善や脱炭素へ貢献できるはずという思いがある。一方で社会から安全性などに厳しい目が常に注がれる。「何か起きれば『40年超だからだ』となって信頼回復は難しい」(高畠所長)。ひとときの達成感を分かち合いたい気持ちを抑え、22年10月の運転再開に向けた準備に移っている。【日本経済新聞】