【復興を問う 帰還困難の地】
福島県浪江町津島地区は阿武隈の山々に囲まれ、天然のマツタケや木材などに使われる赤松の産地として知られる。東京電力福島第一原発事故が起きるまで、住民は自然に恵まれた里山で和気あいあいと暮らしていた。
下津島行政区長の今野秀則さん(73)は、避難先の大玉村で古里の情景に思いをはせ続けてきた。原発事故から何年たっても、津島地区全域に人が戻れる見通しは立たない。「このままでは、津島が人々の記憶から消え去ってしまう」。焦燥感に駆られ、本を発行しようと思い立った。
タイトルは「3・11ある被災地の記録」。県内外に避難している津島地区の高齢者十六人から、原発事故前とその後の状況などを一年かけて聞き取り、写真と文章でまとめた。多くの人に読んでもらおうと、県立図書館や各自治体などに贈った。
津島地区には脈々と受け継がれてきた伝統、文化、民俗、歴史がある。その一つに、県指定重要無形文化財「津島の田植え踊り」がある。地区内の津島、下津島、南津島、赤宇木の四集落に伝わっている。五穀豊穣(ほうじょう)や家内安全を祈る儀式で、三百年ほどの歴史があるとされている。原発事故前は住民が集まり、にぎやかに営んでいた。
今はそれぞれが県内外で避難生活を強いられている。伝統を絶やさないように住民同士で練習したくても、難しいのが実情だ。南津島と赤宇木の人々は避難先で上演しているが、津島、下津島の住民は営めていない。もどかしさを感じる日々が続く。「原発事故は個々の暮らしだけでなく、地域の文化や伝統も奪ってしまった」
今野さんは古里の記憶をつないでいくため、活動にいそしむ。津島地区の有志でつくる「ふるさと津島を映像で残す会」のメンバーとなり、ドローンを活用して地域の家屋を撮影しているほか、伝統芸能などの古里の風景を映像に残す作業に励んでいる。
町は二〇二二(令和四)年四月にも津島地区にある「つしま活性化センター」を再開し、特例宿泊や準備宿泊の拠点とする方針を示している。それでも、被災地の中でも復興が進む地域と、帰還困難区域となった津島地区の差は開くばかりだ。
今野さんは住民らと何度も国や関係機関に足を運び、津島地区全域の避難指示の早期解除を要望している。一方、政府は帰還困難区域について「たとえ長い年月を要するとしても将来的に全てを解除する」との主張を繰り返しているが、特定復興再生拠点区域(復興拠点)から外れた地域の避難指示解除の方針は原発事故から十年がたった今でも示していない。
津島を愛する思いは変わらない。原発事故さえなければ、今も古里で何不自由なく生活できていた。「このまま拠点外を放置するなんて絶対に許されない。避難者の立場に立った政策をきちんと打ち出してほしいんだ」。最後まで諦めず、声を上げ続ける。その決意は揺るがない。
【福島民報】