「福島の検証が終わるまで、再稼働の議論はできない」。東京電力の柏崎刈羽原子力発電所が立地する新潟県。2011年3月11日の地震や津波で、同じ東電の福島第1原発で過酷事故が起きてから10年間、3人の県知事はほぼ同様にこの言葉を繰り返してきた。ただ、新潟は原発とどのように向き合うかという議論は先送りされ、曖昧なまま時が過ぎたとも言える。
「検証作業を引き継ぐ」「その結果が出るまで再稼働の議論はできない」――。18年6月の前回県知事選で、現知事の花角英世氏は街頭演説で大汗をかきながらこう訴えた。「福島の検証は続ける」。その姿勢は、国政与党の自民党や公明党が支持した花角氏の相手で野党統一候補だった池田千賀子氏(現新潟県議)も同じだった。「福島の検証優先」は与野党を問わず公約に使うほど、新潟県では民意を得やすい言葉だ。
「検証」とは、18年4月に辞任した前知事の米山隆一氏が設けた①福島第1原発事故の原因、②健康・生活への影響、③安全な避難方法――の「3つの検証」を指す。米山氏も16年10月の知事選で「福島の検証と総括が終わるまで、再稼働の議論はできない」と唱えてきた前任の泉田裕彦知事(04~16年在任)の路線を「引き継ぐ」と訴え選挙戦を制した。福島事故で生まれた「福島の検証が優先」との方針は、事故から10年たった今も受け継がれている。
なぜここまで「検証優先」は長く支持されているのか。そもそも「不人気政策」の代表格とも言われる原子力政策だが、新潟にはさらに特別な事情がある。新潟県は東北電力管内。そこに東電の原発があるという構図は隣県の福島と同じ。さらに、その福島で原発事故が起こり、新潟には福島からの避難者もいまだに多い。「新潟県全県の選挙に勝つ上で重要になった『原発に慎重な人物像』を映すために、最も響きやすい言葉だった」と地元の政治事情に詳しい新潟国際情報大学の越智敏夫教授は分析する。
ただ、越智教授はこうも指摘する。「『検証が先』といえば物事を未決定にして最終的な決定権を手中にできる。政治家に都合のよい言葉だということに、注意しないといけない」
実際、3氏とも「検証後」に何があるのかは頑(かたく)なに口にしてこなかった。外から見るといつか検証が終われば本当に再稼働に同意するのか、実は同意する気がないのかさえ分からないままだ。「原発の方向性が定まらないことが、今の柏崎の不透明感になっている」。花角知事就任後の18年9月、柏崎市の桜井雅浩市長は「検証」への不満を花角氏にこう直接訴えてきた。
実際、柏崎刈羽原発の再稼働を巡る県の立ち位置の曖昧さは年々増している。県外に目を向けると福島事故から10年間、原発をめぐる日本地図は様変わりした。鹿児島、愛媛、福井、佐賀の各県は「再稼働同意」を選び原発の運転を許容してきた。東日本でも20年、宮城県が女川原発2号機の再稼働にゴーサインを出した。
かたや福島では、地元の強い要望を受けて東電が福島第2原発4基の廃炉を19年に決定し福島で東電が再稼働を目指す原発はゼロになった。電力会社が廃炉を選択した原発は全国20基超にのぼる。
では、東電はどのように柏崎刈羽原発の方針を新潟県で示してきたか。東電は「6、7号機が再稼働してから5年以内に1~5号機のうち1基以上について、廃炉も想定したステップを踏む」「これはあくまで検査のスケジュールで、再稼働のスケジュールを示したものではない」「(再稼働の想定時期を問われて)何よりも地元の理解が大前提だと考えています」と、肝心な部分に答えないまま過ごしてきた。
結果として柏崎刈羽原発は国内最多の7基がありながら廃炉も、再稼働の道筋も1基も描けていない。新潟の人々が原発の存廃へどのように向き合うのか。10年前から何か変わったのだろうか。
10年前の福島事故で原発を含むエネルギー政策の議論は世界的に発展し、変化もしてきた。一方、新潟県では明確なビジョンを描けないまま10年を過ごしてきた。「福島事故10年」のいま、世界では「脱炭素」の潮流が生まれエネルギーを巡る変化が加速しようとしている。どのように、地域は原発やエネルギーと向き合っていくのか。態度を保留できる猶予はそう長くない。【日本経済新聞】