元統合幕僚長・折木良一さんインタビュー
2011年の東日本大震災では、自衛隊の活動にも大きな注目が集まりました。発生当日から現地で救援活動を始め、同時に原発対応にも当たることになった自衛隊員たち。そのトップとして、かつてない災害派遣を指揮したのが、折木良一統合幕僚長(当時)です。
あのとき、なぜ自衛隊は迅速に動けたのか。また、米軍や民主党政権とはどんなやり取りがあったのか――。近現代史研究家の辻田真佐憲さんが聞きました。
阪神・淡路大震災の教訓が活きた
――3.11から、今年でちょうど10年が経ちます。今から振り返ると、過去の様々な災害と比べて、東日本大震災ではすぐ10万人態勢を整えるなど、自衛隊の初動がかなり早かった印象があります。それができた理由は、何だったとお考えですか。
折木 自衛隊はこれまで災害派遣を何度もおこなってきましたが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災のときには、災害派遣要請が遅かったとか、自衛隊の出動が遅かったとか、そういう話もありました。それを機に、災害が起きたらすぐに出るという、即応体制の訓練をやって、自治体との連携もとれるようになってきました。そうした改善が活きたという面はあると思います。
また、東日本大震災のときは震災そのものが大きかったので、「これは自衛隊が出なきゃいけない」というのは、組織としても、それから各部隊としても、直感的に感じたわけです。だから、そういう面でも動きが早かったのかな、と。当日で8000人くらい、それから約1週間で後方支援も含めて10万人態勢を作り上げたんですが、平成16年(2004年)の中越地震などと比べると、かなりのスピードアップができたと思っています。
――被災地では自衛隊員が食事を優先的に被災者へ渡して、自分たちは冷たい缶詰を食べていた、などという話がよく語られていました。
折木 そうですね。そもそも自衛隊は、社会的に認められていないところから始まって、そこから国民に理解される、信頼される存在にならないといけない、という意識がずっとあったんです。だからこそ創隊の時代から、災害派遣の場面では真摯に、真剣に対応をしてきました。その姿が徐々に認められてきたのです。
なので、東日本大震災だけが特別だったわけではなくて、それまでの災害派遣やそれに伴う教育訓練、それから海外での活動などで培われてきたノウハウが、究極的に示されたのが東日本大震災だった、と捉えています。派遣期間も長くて、原発に関して言えば、年末の12月26日くらいまで災害派遣をしていたので、自衛隊の姿がより皆さんの目に見えた、という部分もあったと思います。
――“缶詰の話”がある種美談として語られる一方で、折木さんは災害時こそ一人二役ではなく、二人一役であるべきではないか……つまり、こういうときこそきちんと休みをとらせた方がいいとも仰っていますね。ただ、そのためには我々や、もしかしたら自衛隊自身の意識も変えていく必要があるのかな、と思うのですが、その点はいかがでしょうか。
民主党政権は腰が据わっていなかった
――改めて民主党政権を振り返っていただくと、安全保障の取り組みという面ではあまり腰が据わっていなかったな、という印象ですか。
折木 そうですね。安全保障よりも、政権をどう維持するかということに、まず頭が向いていた気がしますね。民主党政権には安全保障を考える余裕もまだなかったし、もともとそうした知見をお持ちの方もあまりいらっしゃらなかったのかな、と。長島昭久さんとか、前原誠司さんとか、一生懸命に安全保障を考えておられる方も数人はいらっしゃったんですけど、それがまとまった政権自体の考え方にはならなかったという気がします。
――民主党政権時代は、ちょうど中国が台頭してきて、日本の安全保障環境が大きく変わった時期でもあったと思います。折木さんも本の中で、日中の幕僚長クラスが会話できたのは2009年が最後だったと書かれていますが(『国を守る責任』)、やはりあの頃にガラッと時代が変わりましたか。
折木 ちょうどあの頃が、中国の転換点だったと思いますね。2008年に、中国の海軍が初めて南シナ海から津軽海峡を回って、太平洋を通ってぐるっと一周したんです。いま考えれば、あれは中国が海外に対して積極的な動きを始める前兆だったな、と。それで2010年には、GDPで中国は日本を追い越した。それから安全保障環境はかなり厳しくなってきたと思います。
2010年には尖閣諸島沖で中国漁船衝突事件も起きた ©AFLO
2010年には尖閣諸島沖で中国漁船衝突事件も起きた ©AFLO
――その後、再び自民党政権に戻り、安倍晋三さんが総理大臣になりました。その安倍政権について、折木さんは「2013年から2015年までの2年間の安全保障政策の枠組み作りというのは、戦後の安全保障政策の中でも画期的な取り組みだった」とも講演で述べられていますね(「日本の安全保障政策の変遷と自衛隊」『日本の国防』2017年11月)。
折木 はい。
「平和は作らなきゃいけない」という発想
――その一方で、「あれほど聡明な日本人がこと安全保障に関しては、誤解を恐れずにいえば稚拙ともいえる議論しかできないのか」とも前掲のご著書で書かれています。やはり、自分たちはちゃんとやっているのに、国民が安全保障の取り組みを理解してくれないという思いは、自衛隊の中にあるのでしょうか。
折木 今、自衛隊に対する理解というのは、東日本大震災のときのような災害派遣や、海外での活動に基づくものがほとんどだと思います。それで、自衛隊に好印象を持ってくださっている方が90%を超える状況になっている。もちろん、そういう面も大事なのですが、一方で安全保障ということを考えると、どうしても論理ではなく、情操的な、情緒的な話になりがちなのかな、と。戦後の教育の影響もあると思いますが、やっぱり危機管理というものが最初に頭に出てこない状態になっているんですね。
だから、どちらかというと、一般的には平和は与えられるものだという認識が強い。でも、われわれは自衛官なので、当然、平和は作らなきゃいけないという発想で取り組んでいる。そこに、国民とのギャップがあるんだと思います。中国や北朝鮮の問題が出てきた今、「平和って本当に与えられるものなのかな?」というのが、実情として理解できますよね。尖閣をとってみても切実な問題だし、平和に対する意識の変化とともに、最終的には「何を守るのか」という国民の意志が強く求められていると感じます。【文春オンライン】