震災と原発事故から8年がたつ今も、福島県では犠牲者が増え続けていることをご存じでしょうか。避難生活などで亡くなる震災関連死は、津波や地震で亡くなった1605人を大きく上回る2267人。全国の震災関連死3701人の6割以上を福島が占めます。
現在、国や県は、震災関連死と認められた人数と年齢を発表するのみ。NHKもその数をまとめることはあっても、内容についてはあまり触れてきませんでした。震災関連死を、まるで統計データの1つとしてしか伝えていないことに、被災地の記者やディレクターとして、“死”にまひしてしまったのではないかと危機感を持ちました。津波や地震による死を免れたのに、その後の生活で、なぜこれほど多くの人が亡くなったのか。なぜ今も増え続けるのか。明らかにしたいという思いで取材を始めました。(福島放送局 記者・三宅大作/ディレクター・籾木佑介)
今も増える震災の犠牲者
今も増える震災の犠牲者
震災関連死は宮城、岩手、福島の3県とも、震災から1年ほどは急激に増加しました。体育館といった避難所などでの生活で体調を崩したことや、適切な医療を受けられなかったことなど、震災直後の過酷な環境が主な要因でした。
その後、宮城と岩手はほとんど増えなくなりましたが、福島では8年がたつ今も増え続けています。この1年間で新たに認められたのは、宮城と岩手では1人ずつ。一方で福島は45人に上りました。
震災関連死の核心に迫る『経緯書』
取材の過程で、震災関連死の核心に迫ることができる、ある書類の存在を知りました。『経緯書』と呼ばれるものです。亡くなった人が、いつどこに避難し、どのように体調が変化し、どのような最期を迎えたのか。何に悩み、どんなことを話していたのか。遺族が時系列で詳細に記したものです。
震災関連死は、自治体が申請を受け付けて、認定を行いますが、その過程で開かれる審査会で、医師や弁護士などが震災との関連性を審査するうえで、この『経緯書』がカギを握るのです。
今回、何が避難者を震災関連死に至らしめたのか、NHKで検証することにしました。協力を得られた遺族から『経緯書』を集めて、状況をつぶさに見ていくとともに、自治体に協力を依頼し、保管されている『経緯書』に基づいたアンケートを実施。
アンケートの対象は、震災関連死の多い福島第一原発周辺の双葉郡の8町村と南相馬市で、死因や避難回数、震災前後の健康状態、家族構成の変化などについて尋ねました。個人情報を除いた形で、震災から3年後以降に亡くなった人を中心に195人分の回答を得ました。
死因の半数は肺炎と心疾患
死因の半数は肺炎と心疾患
集計の結果、男女はほぼ同数、死亡時の年齢は平均で82.7歳でした。死因で最も多かったのは、身体の抵抗力が弱くなると起きやすい「肺炎」の28%で、2番目に多かったのが、心筋梗塞などの「心疾患」で20%。次いで、「老衰」の10%、脳梗塞などの「脳血管疾患」の8%と続きました。
84%の人たちは、震災前には、病院に入院したり、介護施設に入所したりはしておらず、健康状態に大きな問題を抱えていなかったのです。
帰郷かなわず無念の死
なぜ健康だった人が、命を落としていったのか。今回、『経緯書』を見せてもらうため遺族のもとを訪ねてまわる中で、避難生活中に肺炎にかかり、その後、心筋梗塞で亡くなった男性を取材しました。
全域に避難指示が出た浪江町の池田幸雄さん。ふるさとに戻ることがかなわないまま避難先の福島市で亡くなり、震災関連死と認定されました。『経緯書』からは、過酷な避難生活とストレスが、命を脅かす深刻なダメージとなった実態が浮かび上がりました。
もともと体を動かすことが好きだった池田さん。軽い腰痛を抱えながらも町役場を定年退職したあとは、地元の野球クラブに所属したり畑仕事を楽しんだりしていました。
しかし、原発事故によってその暮らしは一変。突然の避難を余儀なくされ、妻の正子さんとともに避難所や知人の家を転々とします。その回数は、事故発生直後の5日間で6か所、距離にして200キロ余りに上りました。池田さんは、たび重なる移動によって、持病の腰痛が重症化。家に閉じこもりがちになり、体力が急速に衰えていきました。『経緯書』には、大好きな野球にも次第に関心を示さなくなったことが記されています。
体力がどんどん落ちて心身とも疲労、野球の誘いがあっても行きません。
避難中、肉体の衰えが目立つようになった池田さん。同時に、『経緯書』から読み取れるのは、原発事故の影響で将来の見通しが立たず精神的に追い詰められていく姿です。自宅の一時立ち入りで、荒廃したふるさとを目の当たりにした日や、野球仲間が避難生活を苦に亡くなった日の様子が書かれています。
おれは浪江に帰って死にたいとぼやいていた。ふるさとの思いは募るばかりだ。
体力・気力とも低下した池田さんにとってさらに追い打ちをかける出来事が起こります。
浪江町長が5年帰れない選択を宣言する。5年待たなければならないのか、長いなーとつぶやくおとうさん、憔悴!
浪江町の馬場有町長(当時)が「町に戻れない状態が今後5~6年は続くと思う」と明らかにしたのです。「ふるさとに帰りたい」と思っていた池田さんにとって、帰る見通しが立たないことは精神的に大きなダメージとなりました。
その11日後、池田さんは高熱を出して緊急入院。肺炎と診断されました。ストレスにより体の免疫力が低下したことがうかがえます。肺炎からおよそ半年、池田さんは、心筋梗塞を起こし、ふるさとに戻れぬままこの世を去りました。原発事故から2年余りでの避難回数は11回に上っていました。
平均避難回数6.7回 最多は31回も
平均避難回数6.7回 最多は31回も
今回のアンケートの結果で際立ったのは、池田さんのような避難回数の多さです。避難生活における転居などの回数は、1回から2回が6%、3回から4回が22%、5回から9回が58%、10回以上が14%でした。平均すると6.7回で、最も多い人は31回も親類や友人のもとを転々としていました。
NHKが震災から5年を前に、3県の被災者を対象に行ったアンケートでは、宮城と岩手は2.7回でした。福島では津波や地震の被害に加えて、広い範囲に原発事故に伴う避難指示が出され、長期の避難生活を強いられているという特有の事情が見えてきます。
また、3世代の家族が2世代の家族になったり、家族との生活が1人暮らしになったりと、家族が少なくなった人はおよそ3割に上りました。転居を繰り返す中で、隣人や友人はもちろん、家族すらも離れ離れになるケースが少なくなく、家族や地域の見守り機能も低下したとみられます。
命を奪う避難生活のストレス
命を奪う避難生活のストレス
「長年続くストレスが命を奪っている」と専門家は警鐘を鳴らします。
災害精神医学が専門で、被災者の心の健康調査を続ける福島県立医科大学の前田正治主任教授は、「8年がたつ今も震災関連死が増え続けているのは、多くの被災者が、長い避難生活で生きる意欲を失い、自分の体や心のケアができなくなっている深刻な状況だ。将来を見通せないまま、これだけ多くの転居を繰り返すのは、さまよっているような状態だ。人間はある程度のストレスには適応できるが、新たな土地になじめるか緊張し、なじめずに落胆してその地を去るという生活を何年も続けるストレスは、適応できるレベルではない」と指摘します。
ストレスを受けると、ストレスと戦うために、体内に大量のノルアドレナリンなどの物質が分泌され、血圧が上がったり、どうきが激しくなったりするということです。その結果、心筋梗塞などの心疾患や、脳梗塞などの脳血管疾患のリスクが高くなるほか、興奮して眠れなくなって、うつ病を発症するリスクも高くなるということです。
際立つ自殺 死因の6%
また今回の調査で、私たちにとって驚きだったのは、震災関連死と認められた人の中に、みずから命を絶った人が少なくなかったことです。およそ6%に上りました。震災と原発事故の1年後に復興庁が行った調査では、その割合は福島・宮城・岩手の3県でおよそ1%でした。
帰還困難区域から避難している60代の男性は、匿名を条件に、みずから命を絶った妻の経緯書を見せてくれました。そこには、避難先になじめず、ふるさとに帰れないことへの悲痛な叫びがつづられていました。
原発事故で、夫や子どもは勤務先の異動などで転居を余儀なくされ、家族は離れ離れになりました。妻は、毎日のように近所の友人たちとお茶を飲む社交的な性格でしたが、別れを惜しむ間もなく近くの市に避難。
震災から1年後、慣れない都市部で話し相手がおらず、孤独だった妻に異変が現れ始めます。
平成24年1月
1人で生活する時間が多くなり、少しずつ精神的にストレスが溜まってきた。
その後も、不眠は深刻になるばかり。病院を転々と変えて睡眠薬をもらうようになり、震災前はあまり飲まなかった酒も飲むようになりました。
平成25年1月
アルコールを飲まないと寝られないようになった。
睡眠薬と併用しアルコールを飲み始めた。
ふるさとの自宅は、夫婦がためた金でやっと建てたマイホームで、そこで子どもを育て上げ、近所の人たちと親交を深めてきました。広い庭でペットや鶏を飼い、家庭菜園も楽しんでいました。しかし、自宅は帰還困難区域に指定され、帰還の見通しは全くたちません。いくら帰りたくても、それは許されなかったのです。
平成25年4月
帰れないのならば、生きていてもしょうがないと言い始めた。
その後、男性は、妻の帰りたいという思いに少しでも応えようと、ふるさとに一時帰宅しました。4時間ほどの滞在でしたが、妻は自分のベッドに座り込んで、ずっと考え事をしていた姿が、男性は忘れられないと言います。
「私ここにいるから帰っていいよ」「帰りたくないから、あんただけ帰って」とつぶやく妻を説得して、連れて帰りました。
男性は、少しでも希望を持ってもらいたいと、ふるさとの自宅と同じ間取りの家を、避難先に新築することを決めました。しかし、その矢先に妻はみずから命を絶ちました。原発事故から4年余り苦しんだ末のことでした。
男性は「新しい家も、ふるさとの代わりにはならず、長年のストレスが、あの日、爆発してしまったのだと思う。妻のことをもっと理解しようとして、親身に考えてあげればよかったと後悔している。妻も家も土地も奪われ、原発事故への怒りは今も収まらない」と話していました。
自分が弱いと思わないで
今も、福島県だけで4万2000人余りが避難生活を続けています。8年の月日がたち、まちの復興は進んできましたが、心の復興が進んでいない人が多いと感じます。
前田主任教授は、人知れず苦しんでいる人たちに、次のように呼びかけています。
「『8年がたつのに自分は弱い』と思わずに、行政や医療機関に助けを求めてほしい」
そのうえで、多くの人たちに、被災者の癒えぬ心の傷を知ってほしいと話しています。
「震災から8年もたつと、被災者に対して『まだ悩んでるのか』『まだ立ち直れないのか』という目で見る人もいる。それに加えて、原発事故の被災者には『金ばかりもらって』と言う人もいる。震災や原発事故への関心も失われつつある。多くの人たちに、もう一度、避難している人たちの抱えている困難な状況や苦しみや悲しみを理解してほしい」
国や専門家も検証を
震災と原発事故による震災関連死の調査は、復興庁が震災1年後の平成24年に行いましたが、それ以降は行われていません。その後7年間、まちの復興が進む一方で、被災者は何に苦しんできたのか。今回の取材からその一端が見えてきました。震災関連死をこれ以上増やすことなく、原発事故の教訓を将来にきちんと伝えるためにも、個人情報の壁や組織の垣根を越えて、一人一人が亡くなった「経緯」を、国や専門家がより詳細に分析することが強く求められていると感じます。
【NHK】