12日の朝7時前、南相馬市高倉地区。原発から25キロ離れた山あい近くの集落に住む13人がマイクロバスに乗り込んだ。目的地は東京地裁。前区長の菅野秀一さん(80)がハンドルを握った。原発事故で設けられた「特定避難勧奨地点」の解除取り消しを求めた裁判で原告団長を務める。2015年の提訴から6年、19回の公判のたびに往復600キロの送迎を欠かさず続け、この日、判決を迎えた。
裁判で問うたのは、解除基準の放射線量「年20ミリシーベルト」。国が参考にした国際機関の勧告は、復旧時の被曝(ひばく)線量を同1~20ミリとする。だが、菅野さんらは、上限値の「年20ミリ」を高すぎると訴えた。
高倉地区では約80世帯のうち、六十数世帯が自宅に戻った。ただ、山は除染されておらず、線量は菅野さんの自宅で毎時0・4~0・6マイクロシーベルト(年1ミリシーベルト=毎時0・23マイクロシーベルト相当)ある。40人ほどいた子どもたちは、ほとんど戻っていない。
幼稚園は休園し、小学校までの路線バスは走らなくなった。近隣のスーパーも閉まったままだ。道の駅などに卸せば年100万円の副収入になったキノコや山菜の出荷制限も続く。「地域は崩壊した。心配した通りのありさまだ」と嘆く。
自らの「後悔」も裁判へと突き動かした。
旧原町市議長も務めた長年の自民党員。地元幹部として党員を増やした功績が認められ、優秀党員表彰されたこともある。バリバリの保守だ。
市議時代に電力会社から招かれ、4、5回ほど各地の原発関連施設を視察したことがある。福島の原発でもトラブルや不祥事が続いていたが、「日本の原発は世界一安全です」との説明を聞くうち、「原発は大丈夫だ」と思い込むようになった。せんべいなどのお土産を配るなど、電力会社の気配りにもほだされた。
「上限値では国民の生命財産を守れない」
そして10年前――。
高倉地区でも「ボカンと爆発する音が聞こえた」。新潟県長岡市の体育館に避難した後、南相馬市鹿島区の仮設住宅へ。15年秋まで窮屈な避難生活を続けるうち、「原発問題は革新のやることだと思って無関心だった。もっと真剣に考えるべきだった」との思いが強まった。そんな「後悔」で原告団長を務めてきた。
だが、結果は敗訴。「原告の請求をいずれも却下する」。判決の言い渡しは十数秒で終わった。設定解除について判決文は「年20ミリシーベルトを下回ることが確実であることが確認された旨の情報提供で、帰還を強制するものとは認められない」とし、「年20ミリ」の妥当性には触れなかった。
失われたものの大きさを思うと、やりきれなさが残る。「原発事故が起こると若い人が出て行き、山菜や川魚がとれなくなる。上限値では国民の生命財産を守れない。その訴えを歴史に記録したかった」
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南相馬の20ミリシーベルト基準撤回訴訟
2011年の東京電力福島第一原発事故の後、国は避難区域外で局所的に放射線量が高い場所を「特定避難勧奨地点」(伊達市、南相馬市、川内村の計282世帯)に指定し、避難を促した。国は2014年12月までに、年20ミリシーベルトの基準を下回ることが確実として全地点の指定を解除。賠償や支援策は打ち切られた。これに対し、翌年6月までに南相馬市の住民ら206世帯808人が、国は公衆の被曝(ひばく)限度(年1ミリシーベルト)を確保するべきだとして、処分取り消しや1人10万円の慰謝料を求めて東京地裁に提訴。同地裁は12日の判決で訴えを棄却した。地点指定をめぐっては、指定の有無により同じ地域内でも賠償額に差が出るなど「分断」も顕在化した。【朝日新聞】