これまで長く動かないとされてきた断層が動くかもしれない――。この前提に立ち、国は東日本大震災の後、原発の断層評価をやり直した。その注目を集めたのが、日本原子力発電の敦賀原発2号機(福井県敦賀市)だった。
2012年4月、当時の原子力安全・保安院が現地を調査した。敦賀原発の敷地内に活断層「浦底断層」が走っていることはすでに分かっていた。専門家らは2号機の原子炉建屋直下の断層を調べ、言及した。「(浦底断層が)地震を起こした場合、引きずられて動く可能性がある」
国のルールでは、原発は重要施設の直下に活断層があると動かせない。「2号機、廃炉の可能性」。ニュースが駆けめぐった。
「活断層」 変わらない評価
拡大する写真・図版敦賀原発で現地調査にあたった原子力規制委員会のメンバーら=2012年12月1日、福井県敦賀市
この年の9月、保安院に代わり、原子力規制委員会が発足。3カ月後の専門家を交えた会合で、当時の島崎邦彦委員長代理は「活断層といって差し支えない」との見方を示した。13年、規制委の有識者会合は活断層と断定する報告書をまとめ、再評価でも変わらなかった。
敦賀2号機に端を発した断層調査は各地の原発に広がった。北陸電力志賀1号機(石川県)の原子炉建屋直下の断層も活断層の可能性が指摘された。
「見ざる、聞かざる、言わざる」の立地住民
「危険性があると科学的に評価された以上、廃炉しかない」。敦賀市議の今大地(こんだいじ)晴美さん(70)はそう話す。金物店を営んだ両親は、敦賀原発の建設工事で資材を納めていた。母親は口癖のように「原電のおかげであなたは大学に通えた」と言った。親類や友人ら原発で生計を立てる住民は多く、若い頃は原発への疑問を口に出せなかった。
福島で原発事故が起き、その1年後に足元の敦賀原発で活断層の疑いが出てきた。「問題が起きても、私たち立地の住民は、これまで『見ざる、聞かざる、言わざる』で過ごしてきた。原発との向き合い方を考えるきっかけになった」
断層問題は原電の経営を直撃した。原電は敦賀と東海第二(茨城県)の両原発を保有する。東北、東京、北陸、中部、関西の大手電力5社に電気を売り、収入を得てきた。しかし、最も出力が大きい敦賀2号機は再稼働の見通しが立たなくなった。その影響は、地元経済に広がった。
敦賀商工会議所が17年、原発関連企業にアンケートしたところ、原発と取引のある164社の約半数が、福島の事故後に「売り上げが減った」と回答。「原発が稼働しない限り見通しが立たない」などの声が寄せられた。
「廃炉ラッシュ」に直面する地元業者
小森英宗(ひでむね)さん(73)は市内で機械工具卸会社を営む。売り上げの6割が原発関連を占め、原電とも取引していた。福島の事故後、東北電力女川原発(宮城県)や中部電力浜岡原発(静岡県)などに販路を求めた。14年には、ベトナムに子会社を設立し、日系企業との取引を始めた。
原発城下町は廃炉ラッシュに直面する。敦賀市では08年から廃炉作業を進める新型転換炉「ふげん」に加え、敦賀1号機が15年、高速増殖原型炉「もんじゅ」が16年に廃炉が決まった。
小森さんは「原発がない将来をどう描くか。行動に移さないと、このまちの未来はない」と話す。
敦賀2号機の断層問題は規制委が審査を続けているが、20年2月に原電が断層の観察記録を書き換えていたことが発覚した。最終結論によっては、原発城下町から、原発が消えることになるかもしれない。
敦賀原発の断層問題を巡る主な経緯
2011年5月7日 日本原子力発電の敦賀2号機が運転停止
12年4月24日 2号機原子炉建屋直下の断層が活断層である可能性を国が指摘
12月11日 原電、原子力規制委員会に活断層を否定する質問状
13年5月15日 規制委の有識者会合が活断層と断定。廃炉の可能性浮上
14年1月20日 規制委が現地で再調査
8月27日 規制委の有識者会合が原電の「活断層ではない」とする主張を退ける
15年3月17日 1号機の廃炉決定
20年2月7日 原電による2号機の調査資料の書き換えが発覚
10月30日 規制委が審査再開を決定
12月14日 規制委が原電本店(東京)に立ち入り検査
【朝日新聞】