2013年5月13日付の朝日新聞朝刊1面に「もんじゅ 停止命令へ」の見出しの記事が載った。日本原子力研究開発機構が高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)で1万点に及ぶ点検を放置し、原子力規制委員会が運転再開の作業を禁じることを特報した。
この不正行為が、もんじゅ廃炉の引き金となった。
「陸の孤島を豊かにしてくれた夢の施設だった」。冷たい風が吹きつける砂浜から巨大な原子炉建屋を見つめ、橋本昭三さん(92)は言った。
15世帯が暮らす敦賀市白木地区の元区長。旧動力炉・核燃料開発事業団(現機構)の職員3人が自宅を訪ねてきたのは、1970年2月のことだ。「新しい原発を造りたい」。もんじゅ建設の申し出だった。これを逃せば、「集落は消える」と思った。港や道路が造られ、働き先ができた。
「信じられないほどの税金」
もんじゅは、発電に使った量以上のプルトニウムを生み出す「夢の原子炉」と呼ばれた。青森県六ケ所村の再処理工場と並び、使用済み核燃料を再処理して使う「核燃料サイクル政策」の中核に位置づけられた。
しかし、トラブルは続く。95年のナトリウム漏れ事故。2010年には原子炉に核燃料の交換装置が落下した。この直後から、不正は始まった。
11年の東京電力福島第一原発事故で、国費1兆円を投じ、いっこうに動かないもんじゅも批判の的となった。民主党政権の蓮舫行政刷新相は「信じられないくらいの税金が使われている」と指摘し、財務省も「頭を冷やす必要がある」と予算圧縮を求めた。
風当たりが強まる中で、違法行為は発覚した。
取材メモには「アウト。信じがたい」
もんじゅはナトリウムで原子炉を冷やす。ナトリウムは水や空気に触れると爆発のおそれがある。12年9月、旧原子力安全・保安院の抜き打ち検査で、ナトリウム漏れを検出する機器の点検周期が変えられていたことがわかった。検査官の調べに、職員は「手続きを省略していた」と答えた。
内部調査の結果、点検が放置された機器は最高度の安全性が求められる「クラス1」を含め、1万点にも及んだ。
ナトリウム漏れ事故では、発生直後に撮影されたビデオ隠しの問題が批判された。点検問題では内部調査が2カ月間、機構の上層部に伏せられた。
朝日新聞は関係者に接触を重ね、規制委の行政処分をつかんだ。当時の取材メモには「福島の事故の後も安全軽視の姿勢を続けてきた。信じがたい」「アウト。自分たちでつくったルールを自ら破っている」とある。
「精いっぱい支えた」と元区長
大手電力出身の機構の元幹部は「電力会社のように運転経験もない。職員の自覚も弱かった」と振り返る。その後も、もんじゅは保安規定の違反を繰り返し、三下り半を突きつけられる。
15年11月、原子力規制委員会は、馳浩文部科学相にもんじゅの運営主体を変えるよう勧告した。「安全に運転する資質がない」。勧告文はそう結論づけた。16年12月、廃炉が正式決定する。機構の児玉敏雄理事長は「痛恨の極み」と声を落とした。西川一誠知事は「保安上の対応もできない組織が廃炉作業をするのは不安」と語った。
橋本さんは半世紀以上、日記をつけている。建設、事故、廃炉……。集落の変化を筆で和紙につづった。「建設も廃炉も決めたのは国。自分たちは精いっぱい支えてきた」。橋本さんはそう話す。
小さな集落は国策に振り回されてきた。夢の原子炉は幻となった。
「もんじゅ」廃炉を巡る主な経緯 (肩書は当時)
2012年11月27日 日本原子力研究開発機構が「点検ミス」発表
12月5日 原子力規制委員会が保安規定違反と認定
13日 機構の鈴木篤之理事長が「形式的ミス」と発言
13年2月14日 規制委、もんじゅに立ち入り検査
5月13日 朝日新聞「もんじゅ停止命令へ」と報道
15日 規制委がもんじゅの運転再開の作業を禁じる
17日 鈴木理事長が引責辞任
16年12月21日 もんじゅの廃炉決定
20年9月29日 国、福井県と市にもんじゅ敷地内で試験研究炉の新設を説明
【朝日新聞】