東京電力福島第一原発事故から10年が過ぎた。この間、国内最多15基の原発が集中する福井県・若狭地域は岐路に立たされてきた。取材現場で見えたものは何か。「原発銀座」の10年間をたどる。
2012年6月16日、野田佳彦首相は首相官邸で深々と頭を下げた。関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働に同意した西川一誠・福井県知事に謝意を伝えた。
「40年にわたって向き合ってきた自治体の決断を感謝したい」。福島の原発事故後、初となる再稼働を宣言した。
おおい町では時岡忍町長(故人)が再稼働に同意した直後から、町役場に抗議の電話が殺到した。大飯原発の元幹部は町長からこう言われた。「おまえは発電所の中で安全をしっかりしていればいい。おれが前に出てやる。任せておけ」
町議1期目で再稼働に賛成した尾谷(おだに)和枝さん(56)の自宅に「死ね」「責任を取れ」と、匿名のはがきが届いた。反原発団体が直接訪ねてきたこともあった。
夏場の電力需要に危機感
尾谷さんは子育て支援の充実を公約に掲げ、原発事故1カ月後の選挙で初当選。町出身の夫と結婚し、28歳で東京から移り住んだ。隣近所や親戚の多くが原発で働き、「遠い存在の原発が身近になっていった」。
町議に就任するや、再稼働の是非に直面した。住民から「地震や津波は大丈夫か」と心配の声が寄せられた。議員同士で勉強し、疑問があれば国や関電に質問を投げた。
関電の電源構成比率に占める原発の割合は10年度に51%に達した。12年2月に高浜3号機が停止し、関電の全原発が止まった。関電の八木誠社長は同3月の会見で「需要急増、トラブルで(電力需給が)逼迫(ひっぱく)することも考えられる」と危機感を示し、5月には「再稼働に全力を挙げて取り組む」と訴えた。
説明会で住民にボディーチェック
夏場の電力需要を前に、国も再稼働に突き進んだ。12年4月、おおい町で住民説明会を開催。事前に申し込んだ546人がバス13台に分乗し、会場入りした。国は安全確保を説き、関電は電力不足を訴えた。「命を守ることを考えていただければ賛成」「再稼働はありえない」。声は割れた。
5月に入ると、北海道電力泊3号機が停止し、事故前に国内に54基あった原発は稼働ゼロになった。
人口約9千人(当時)のおおい町は、原発マネーに支えられる。12年度当初予算の歳入は原発関連が全体の約6割を占めた。土木・建築、設備、警備のほかに、飲食、宿泊、運輸と原発産業の裾野は広い。住民のほとんどが何らかの形で原発の恩恵を受けている。
安全が確保されれば、原発を動かさない手はない。再稼働に反対した議員は、採決した12人で1人だけだった。
トップは海路で原発入り
首相宣言の当日、関電はただちに再稼働の作業に入った。7月1日に大飯3号機の原子炉を起動、2日早朝に臨界に達した。反対派の住民らが大飯原発に通じる道路をふさぎ、町内で抗議集会を開催。八木社長は陸路を避け、隣の福井県小浜市の港から原発に向かった。
尾谷さんは「再稼働を通して立地と消費地が分断されていった」と言う。「ふるさとを追われた福島の避難者の姿が忘れられない。もし、大飯で事故が起きたら、との思いは消えない」とも話す。
14年5月、大飯3、4号機の運転を差し止める福井地裁判決は指摘した。「豊かな国土に国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これが取り戻せないことが国富の喪失だ」。原告の住民らは喜び、関電は非難した。
尾谷さんは今、関西の脱原発団体と交流を続ける。消費地と供給地、危険性と経済性。対立を乗り越え、互いの考えを理解し合いたいと願っている。
大飯原発3、4号機の再稼働を巡る主な経緯 (肩書は当時)
2011年3月11日 東京電力福島第一原発事故
12年2月20日 高浜3号機が停止し、関西電力の全原発停止
4月14日 枝野幸男経済産業相が福井県とおおい町に大飯3、4号機の再稼働要請
5月5日 北海道電力泊3号機が停止。国内の原発50基全てが停止
6月14日 おおい町の時岡忍町長(故人)が再稼働同意
16日 西川一誠知事が野田佳彦首相に再稼働同意を伝える
7月1日 大飯3号機が再稼働
18日 大飯4号機が再稼働
9月14日 野田政権が「30年代に原発ゼロ」の戦略をまとめる
19日 原子力規制委員会が発足
12月26日 第2次安倍政権が発足。原発ゼロ政策を転換へ
13年7月8日 原発の新規制基準施行。関電など電力4社が5原発10基の再稼働申請
9月15日 大飯4号機が定期検査入り。1年2カ月ぶりに国内の全原発停止
【朝日新聞】