世界貿易機関(WTO)を舞台にした日本と韓国の水産物の輸入制限を巡る争いは、日本の「逆転敗訴」となった。東京電力福島第1原発事故後、韓国が実施する日本産水産物の輸入規制に事実上の「お墨付き」が与えられた結果となり、日本の提訴が裏目に出た形。農水産物の輸出拡大を目指す政府の戦略への打撃は必至だ。今回の判断は、日韓関係や被災地の復興に影響を与える可能性もある。
「対抗措置を取れるパネル(紛争処理小委員会、1審に相当)の判断を維持したかったが、取り消されて(輸入規制)撤廃を迫るツールを失ってしまった。非常に残念だ」。河野太郎外相は12日の衆院外務委員会で、そう話した。政府は、輸入規制を続ける23カ国・地域に対しWTOの判断をもとに規制緩和を求める戦略だったが、逆転敗訴で見直しを迫られそうだ。
逆転敗訴は、日本にとって想定外だった。韓国の禁輸措置が「差別的」だとする日本の主張をほぼ認めた1審では原子力の専門家らも審議に加わっており、水産庁と外務省の担当者は10日、「専門家が検討した1審の事実認定が覆ることはほとんどない」と楽観的だった。
判断が覆ったのは、上級委が日本産水産物の安全性や貿易制限など重要な論点について、1審の検討に不備があったと判断したためだ。韓国は、放射性物質のレベルが今は低くても将来、影響が現れる潜在的リスクを訴えてきた。上級委は、1審はこの潜在的リスクについて検討が不十分だったと指摘。韓国の措置が貿易制限に当たるかどうかについても、1審は韓国と日本の地理的な事情などを十分考慮していなかったとした。
提訴された事案について具体的に事実を確認して判断する1審と異なり、上級委は国際法の専門家が1審の判断がWTO協定に照らして法律的に問題がないかを判断する。1審判断の論理展開や法的な妥当性を理由に日本の主張が取り消された形で、WTOの紛争処理に詳しい有識者は「法律論で1審が覆る『逆転敗訴』はめずらしい。判断プロセスの点検が甘くなりがちなパネルの弱点を突いた韓国の戦術勝ちだ」と語った。上級委の定員は7人だが、WTOに懐疑的なトランプ米政権が委員の再任を阻止しており、現在は審理が開けるぎりぎりの3人で運営されている。この有識者は「明らかに人員不足で、果たして十分に審議されたのか疑問」とも指摘した。
上級委が検討不十分と指摘した潜在的リスクは具体的に示すのが難しく、風評被害につながる恐れがある。政府は、農水産物の禁輸措置解除を被災地の復興につなげたい考えだが、吉川貴盛農相は「復興に向けて努力されてきた被災地の皆様のことを思うと、誠に遺憾だ」と語った。
今回、上級委が日本産水産物が安全との1審の判断を変えなかったのが数少ない救い。「日本産食品は科学的に安全で、韓国の安全基準を十分クリアするとの1審の事実認定は維持されている」(菅義偉官房長官)と引き続き国際社会に安全性を訴えていく方針だが、逆転敗訴のインパクトは大きく他国の理解を得られるかは見通せない。
慌てる外務省、自民からも苦言
河野太郎外相は12日朝、韓国の李洙勲(イ・スフン)駐日大使を外務省に呼び、「今後は2国間協議で輸入規制撤廃を求める」と伝えた。WTOの上級委員会で勝訴を見込んでいた同省は、会談冒頭のメディアへの公開を急きょ取りやめる慌てぶり。河野氏は衆院外務委員会で「なぜこうした判断になったか、よく分からない」と認め、自民党の佐々木紀氏が「日本が勝つという油断があった」と苦言を呈した。
逆に韓国政府は敗訴を覚悟。(1)WTOの発表後、ただちに緊急対策会議を開催する(2)是正措置を講じる15カ月の猶予期間を活用し、安全対策を準備するとアピールする(3)日本と外交交渉に入ることを想定し、WTO発表の説明は韓国人担当記者を対象に非公開で行う――という対応を予定していた。思いがけない勝訴の記者会見はインターネットで中継され、韓国政府は、各部署が勝訴にいかに努力したかを力説してみせた。
韓国外務省や農林畜産食品省は12日、WTOの報告書を評価する政府見解を発表し、福島を含む8県の輸入禁止措置を続けると表明した。「判断が出たのだから、(措置は)恒久的に続く」(国務調整室当局者)と強気だ。韓国の消費者団体などは12日、政府庁舎前で「国民の安全が勝利」と横断幕を掲げて歓迎。世論の支持を背に、韓国政府内には輸入禁止地域をさらに拡大する案まで出ている。
一方、元徴用工問題や慰安婦問題で韓国とにらみ合う日本政府は、WTOのお墨付きを得て輸入規制を決着させ、日韓間の問題を国際ルールで解決する「先例」にしようとしていたが、そのもくろみは外れた。河野氏は12日の会見で「韓国から日本に750万人が来て和食を楽しんでいる状況で、意味のない輸入規制を続けることは2国間関係に大きな影響を及ぼす」とけん制した。しかし勢いづく韓国が、2国間協議で規制撤廃に応じる見通しはない。
元徴用工問題でも、日本は第三国を交えた仲裁委員会や国際司法裁判所(ICJ)への付託を視野に入れる。ただ「絶対に勝てるとは言い切れない」(外務省関係者)との見方もあり、日本側は今回の敗訴で他の難題でも戦略の検証を迫られそうだ。
石巻ホヤ養殖業者「希望の光が消えてしまった」
「海のパイナップル」と呼ばれるホヤの国内最大の養殖産地で、震災前は生産量の約7割を韓国に輸出していた宮城県。東京電力福島第1原発事故で韓国が輸入を止めた影響で、17年も6900トンの廃棄を余儀なくされた。減収分は東電が補償してきたが、県漁協と東電は昨年、WTOでの勝訴を見込み、20年末で補償を終了することで合意していた。このため、「まさかの敗訴」は養殖業者たちをどん底に突き落とした。
「WTOの判定を聞き、『もう駄目だ』と嘆く仲間がいた」。12日早朝、宮城県石巻市の漁港でホヤの水揚げをしていた渥美貴幸さん(36)はそう語り、続けた。「韓国への輸出再開をあてにしていた漁師の中には、ホヤ養殖をやめる漁師が出てくるかも」。同県南三陸町で40年以上、ホヤの養殖を続ける高橋源一さん(62)も「津波被害から立ち直ろうと安全なホヤを作るために努力してきた。その希望の光が消えてしまったようだ」とうなだれた。
高橋さんらは「風評被害が他の国に連鎖しないか心配だ」と異口同音に語り、「国は粘り強く韓国と交渉してほしい」と望んだ。
「『1審』の勝訴で期待していた部分があった。それなのに……」。厳しい検査や、親しみやすいアニメの製作などで福島県産品の安全性をPRしてきた県農産物流通課の担当者も驚きを隠さなかった。
福島県では震災翌年から第1原発近くの海域を除く沖合で試験操業を行い、安全が確認された魚種を出荷している。15年4月以降、放射性セシウムの基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える魚はほとんど水揚げされておらず、市場には安全なものしか流通していない。
担当者は「規制を撤廃していない台湾などの他国・他地域が、規制の期間を延長しないだろうか」と不安を隠さない。福島県漁連の野崎哲会長は「これからも努力を続け、安全性への理解を広げていくしかない」と語った。
一方、岩手県の達増拓也知事は「WTOの判断は残念だが、むしろ漁獲量の減少が大きな問題」と水産業が抱える構造的な課題も指摘する。「きちんと検査をしていて、我々も韓国からの旅行者もおいしくいただいていることをアピールしていけば、悪いことにはならないと思う」と訴えた。【毎日新聞】